一枚の皮を剥げば、同じ赤い血が流れるのに。

私は、かつてカンボジアで過ごした日々を思い出した。

カンボジアに行く前、私は彼らをどこか「哀れな人々」だと思っていた。だが、現地で暮らし始めてすぐに思い知らされたのは、自分の無力さだった。 過酷な環境を生き抜く彼らの前で、私は何の役にも立たない、ただの傍観者に過ぎなかった。

さらに、世界を歩けば私自身もまた、ただの「アジア人」という記号でしかなかった。 ある国では唾を吐きかけられ、レストランでは注文すら取ってもらえない。席を譲っても無視される。心が曇り、削られていく瞬間。それは、日本という温室にいては決して味わうことのない、冷たく鋭い痛みだった。

忘れられない光景がある。 カンボジアの生活に馴染み、ボロボロのTシャツと短パンが当たり前になっていた頃、私はバンコクへ日本人団体の出迎えに行った。 空港で私を見る彼らの目は、あからさまな「蔑み」と「警戒」に満ちていた。 その時、気づいたのだ。かつて初めてこの地に降り立った時の私も、きっと同じ目をしていたのだと。

同じ人間。一枚皮を剥げば、誰もが同じ赤い血を流している。 文化や宗教の違いはあれど、根底にある命の重さに違いなどないはずなのに。

力を持つ側が語る「正義」を鵜呑みにし、現地を歩きもしないまま「すべてを知った」と語る人々がいる。 かつてネルソン・マンデラ氏がテロリストとして収監され、ポーランドにゲットーが築かれ、今もパレスチナが高い壁で隔てられている。500年もの間、奴隷として扱われてきた歴史がありながら、人類誕生の地であるアフリカにはいまだ平和が訪れない。

歴史の教科書に書かれた「過去」ではない。それは今も形を変えて、私たちの目の前に存在している。

SNSの喧騒からも離れた今の私。 ジムニーのハンドルを握り、介護を通じて「命の重さ」に触れる日々の中で、自分が抱いた「情けない」という叫びが、より深く胸に響く。

私たちが学ぶべき歴史とは、単なる年号の暗記ではない。 「自分と違う」というだけで境界線を引いてしまう、人間の恐ろしさを知ること。そして、不便さや苦しみの中にこそある、本当の尊厳を見極めることではないだろうか。

あの日のバンコクの空港で感じた、あの「視線の冷たさ」を、私は一生忘れないだろう。

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