「煽り」の時代から、静かな場所へ。

あるドキュメンタリー映画をきっかけに、SNSがもたらす深刻な歪みについて強い危機感を抱いていた。

当時は著名人のSNS被害が相次ぎ、同時に炎上を売名に使うような、激しくも殺伐とした空気がネットを覆い始めていた頃だ。あれから数年が経った今、事態は改善されるどころか、さらに巧妙で、根深いものになっているように感じる。

私はかつて、あえて実名でSNSを利用していた。 それは自分自身を過信していなかったからだ。「実名である」という自覚と責任が、不用意な発言や誰かを傷つける言葉への抑止力になると考えていた。

匿名性の陰に隠れて放たれる言葉の刃。その犠牲になるのは、ニュースになる著名人だけではない。統計上の数字には現れない、名もなき無垢な人々が、今もどこかでひっそりと心を痛めている。 SNSにも映画のような年齢制限(PG指定)を設けるべきだという私の考えは、今も変わっていない。

マスコミの「煽り」体質についても、当時は厳しく批判していた。 独占的な地位を失うことを恐れ、視聴率やインプレッションを追い求めるあまり、本質を見失ってしまった旧来のメディアたち。 「時代の潮流に逆らえないものは、容赦なく衰退していく」 5年前に書いたこの予感は、今、現実のものとして目の前で起きている。

今の私は、SNSからはすっかり距離を置き、デジタルな情報の波に疲れた自分を癒やすように、アナログな世界へと戻っている。

針を落とすまで音の出ないレコード。現像するまで結果のわからないフィルムカメラ。 そこには、誰かを煽る言葉も、瞬時に広がる誹謗中傷もない。ただ、自分と、その対象物との間にある「確かな時間」が流れているだけだ。

SNSの狂騒から離れたことで、私は「自分を律する」ための実名という盾すら必要のない、静かな平穏を手に入れた。

「本当に生まれ変わらないと、朽ちてしまう」 前回の投稿での結びの言葉は、メディアだけでなく、デジタルに依存しすぎた私たち現代人すべてへの警鐘だったのかもしれない。

不便さを贅沢と感じられる今だからこそ、あの時抱いた違和感を忘れずにいたいと思う。

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