母の介護、10ヶ月の軌跡。「チーム」が完成した瞬間に訪れた幕切れ。

自分の備忘録のためにここに記します。



2026年3月15日12時39分。母が永眠いたしました。 黄疸が見つかったあの日から、わずか10ヶ月。 年齢と同じ「時速57km」で人生を急いでいたはずの私の時間は、母の介護が始まった瞬間、重く、ゆっくりとした、予測不能な流れへと変わりました。

これから介護に向き合う方へ、そしてかつての私自身へ。 「あの時、こうしていれば」という痛恨の思いを込めて、私たちの記録を残します。

始まりは2025年5月。そして訪れた「分岐点」

黄疸から始まった検査の結果は、悪性の胆管癌でした。 胆管のステント手術、そして7月の11時間に及ぶ亜全胃温存膵頭十二指腸切除(SSPPD)と言う大手術。母は驚異的な回復を見せ、杖や歩行器で自力で歩けるまでになりました。

今振り返れば、この「2025年7月4日」が最大のポイントでした。

この時、地域包括支援センターに連絡を取っておくべきだった。 「まだ自分でトイレに行けるから」「食事も作れるから」と、私はどこかで油断をしていました。専門家と繋がることを先延ばしにしたツケは、のちに「対応の後手」という形で、重くのしかかってくることになります。

12月、事態は急変しました。てんかんによる意識混濁、繰り返される救急搬送。 ここでようやく地域包括支援センターへ走り、社会福祉協議会、ケアマネジャーさん、福祉用具の担当者さん……と、点と点が繋がり始めました。

しかし、病状の進行は待ってくれません。 腹水が溜まり、足が浮腫み、あんなにしっかりしていた母の体力が、砂時計が落ちるように急激に削られていきました。

介護の知識がない私は、レンタルできることを知らずに、慌てて不要なものを買い込んでしまうこともありました。 刻一刻と変わる母の容態。予測不能な事態。そのたびに、私は「準備不足」という自分自身の勇み足に、何度も唇を噛みました。

3月に入り、医師、看護師、ケアマネジャー、ヘルパー、デイケア、福祉用具屋さん、お弁当屋さん。そして親戚や近所の方々。 母を支えるための「最強のチーム」が、ようやく完成しました。

「さあ、これからみんなで母を支えていこう」 そう思った矢先の、3月15日でした。

母の旅立ちとともに、このチームは解散することになりました。 もう少しだけ、このチームで活動したかった。 もっと早くこの布陣を整えていれば、母に、そして自分自身に、別の景色を見せてあげられたのではないか。その悔しさは、今も消えません。

母は、自宅の前に咲く桜を何よりも楽しみにしていました。 「友達に自慢の料理を振る舞いたい」と、手元で使えるポータブルIHまで用意して、その日を心待ちにしていました。 3月2日に借りた車椅子は、一度も使われることがありませんでした。その車椅子に母を乗せて、桜を見ながら通院する……それが私たちの、叶わなかった最後の夢です。

今、お骨となった母は、自宅から桜が望める場所で静かに眠っています。 今年咲く桜を、私はどんな気持ちで見上げるのでしょうか。

介護は、一人で走る短距離走ではありません。 「まだ大丈夫」と思う時にこそ、プロの助けを借りる準備を始めてください。 あなたの人生の速度がどれほど速くても、病の進行や制度の壁は、時にそれを残酷なまでに遅く、重くします。

母を支えてくださったチームの皆様、本当にありがとうございました。 そして母へ。 ポータブルIHも、車椅子も、出番はなかったけれど、あなたの「前を向く力」に私は救われていました。

今年の桜は、あなたの分まで、しっかりと目に焼き付けようと思います。

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